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悪意ある善人による回顧録

レビューサイトの皮を被り損ねた雑記ブログ

花散峪山人考 (2012年時)

記事の練習のため、以前プレイしたゲームの感想記録(2012年)からひとつ丸写しさせていただきます。


***注意はじめ***

以下の文面は言葉遣いに乱れが生じたり、ネタバレにあふれる虞があります。

また、本文は筆者である阿久井善人の独断と偏見に基づいて記されております。

当方が如何な感想を抱いたとしても、議題となっている作品の価値が貶められるはずもなく、読者の皆様のお考えを否定するものではないということを、ここに明記いたします。

***注意おわり***

 

 

本作は「raiLsoft」より2011年に発売された18禁作品である。

(ちなみにタイトルは「ハナチルタニサンジンコウ」と読む)

ただし、いわゆる「ヌキゲー」の類ではなく、残虐描写によってR指定されるような伝奇系ノベルゲームと言える。

(もちろん性的描写も豊富に取り揃えてあるが)

 

 

この物語は昭和初期、第二次大戦前の日本を舞台とした復讐劇である。

身寄りのない青年「伊波」は、親切な養親に引き取られ、許嫁の「初美」と幸せに暮らしていた。しかし、初美は何者かによって殺害されてしまう。初美を失った伊波は正気を失い、修羅と化した。彼は初美の命を絶った者を捜し求めて山野を駆け巡り、人や人ならざる者までをも巻き込んだ仇討ちを始める。

その道中で伊波は、ヤマイヌと蔑まれる村娘「いち」と出会う。だが、いちの姿は伊波の許嫁・初美と瓜二つだった……という筋。

 

 

題材が復讐劇というだけあって全体的に暗い。

だが、主人公「伊波」の狂人じみた言動や、ヒロインである「いち」とのかけあいが、ほどよく物語を色づけている。その点は一見の価値がある。


しかし、主人公の伊波に巻き込まれて登場人物のほとんどが破滅するため、見ていて胸のすく話ではない。


伊波は許嫁を理不尽に殺されたせいで既に正気を失っている。とはいえ、彼の行う残虐非道な振舞いは正当化できるものではない。このような伊波の八つ当たり的な言動に耐えられないならば、この物語にかかわらないことを強く推奨する。


今は亡き伊波の許嫁・初美。彼女といちの容貌がなぜ似通っていたか。それは終章になってようやくあかされるわけだが、いまいち舌足らずな感がある。

 

真相とは以下の通りである。

 

 


ヤマイヌと呼ばれた少女・いち。その正体は、すべての山人の生みの親にして峪の女神・一神の君(いちがのきみ)であった。

一神の君はその神性を潰れた右目に封じ、自身は山人と里人との合いの子として生きてきた。

一方で、もし自分が純粋な人間として生きられたならどうなっていたかという望みを託し、人の世に送り出したのが千種初美という人間だった。ゆえに二人の女の容貌は同じものであった、というからくりである。

 

ただ、いちの回想にあった通り、いちは山人の母と里人の父の間に生まれた子供であるはずだが、一神の君の話からだとそのあたりのことが釈然としない。

肉体年齢的には初美の方がいちよりも年上であるはずだから、一神の君が初美を世に送り出したのちに、自らも人の子として生まれた、という解釈で正しいのか。

それとも、初美を生まれさせたあと、何らかの要因によって神性と記憶を失くし、人の子として育てられたということなのか。この疑問の答えとなる手がかりが、この物語には登場していないのである。

 


しかしそもそもの話として、どうして一神の君は右目をつぶされていたのだろうか。

終章で神性を取り戻し、覚醒したいちのセリフから察するに、おそらくは自分の神としての性質を右目に封じる為に自ら潰したのではないかと推察できる。

仮にそうだとしても、なぜ一神の君は自らの右目を潰してまで、自分の記憶を失くしてまで、自身を合いの子の身に落としたのだろう。

近代化が進み、山人たちも滅びゆく中、その生みの親たる自分自身も人々の意識から消え果て、忘れ去られていくのが耐えられなかったのか。その証左か、覚醒したあと一神の君は言った。いちを追って滝壺に飛び込んだ伊波を助ける為、封じた神性を取り戻し、「誰にも顧みられない、一神の君」にまた逆戻りしてしまったと。

もし自分が人として生きられたならと初美を生み出したほどである。一神の君が抱いていた感情は、いちにも根深く受け継がれていたのではないか。すなわち、孤独である。

 

里人からはヤマイヌとののしられ、山人からも相手にされない。神から人へ成り替わってもなお、一神の君の――いちの孤独が癒されることはなかった。
いちは、自分が一神の君であったころからの孤独を心の奥底で自覚していたのかもしれない。だからこそいちは、伊波という狂気の権化たる男であったとしても、自分を性のはけ口・狩猟の道具としてしか見なしていなかったとしても、自分を求める彼から離れようとはしなかったのだろう。

吹き荒れる嵐にもまれるごとく、その暴風に惑っているうちだけは、自分は孤独ではないと、一人ではないのだと信じていられるから。

 

そしてそれは、伊波が仇として追い求めた山人の親玉がいち自身であったとしても変わらなかった。
筆舌しがたい孤独の中で生きてきたいちも、文字通り憎悪の炎に焙られた伊波の手にかかって、彼とともに死ぬことを選んだ。

 

その思いは、とても常人の理解に及ばない歪んだ感情ではあった。しかしそれは、大入道と化した化野から一人逃がされたいちが吐露したとおりの結末である。

 


最後まで一緒がいい――

 


犯され、嬲られ、少女の身としては凄惨の極みといえる数カ月だったとしても、それこそがいちの選んだ死に様だった。たとえ道具扱いされても、ずっと一緒にいられるのなら、と。
そうしていちは、伊波の復讐行を共にし、それを達成せしめたと同時に自らも望んだ死を迎えたのであろう。

 


読者たる自分としては、たとえそれが伊波の、いちの願いだったのだとしても、やはり生きて欲しかった。


伊波が全ての復讐を終え、もはや生きる意味がないというのは容易い。
しかしそれでも、友人・椿がこぼしたように、伊波は生きて幸せになるべきだったのだ。


いちとなら、もしかするとそれができたかもしれない。伊波の欠損した心を埋める存在になりえたかもしれない。いや、あとひといきで、なっていたかもしれないのに。


理不尽に連れ出し、非道の限りを尽くし、復讐の道具にしてきた彼女であっても、やはりひとりの女である。
利用するだけ利用して、あとは知らぬ存ぜぬというのでは道理というものが通らない。いちという旅の道連れを得た時点で、彼には幸せに生きる義務が、いちと幸せになる義務があったのだ。なにも初美のことを忘れろというわけではない。ずっと悼み続けてもいい。だがそれを、どうして一人きりでしなくてはならないと思いこんだか。


一緒に死ぬだけが方策ではなかったはず。千種子爵とともに亡き妻・初美を弔うも、いちと子供をもうけて長寿を全うするも、ほかにもいろいろあったはずなのに。

それほどまでに、亡くした女が恋しかったのか。同じ顔をしたいちをもってしても、彼の破滅を留めるには不十分だったのか。

 

全てを終え、彼岸の世界に旅立ったのち、ようやく伊波といちは二人で歩み始める。
それが幸せとは決していえないと思うけれど、彼らがそれを望むなら、もはやいち読者たる自分が横やりを入れるべきではないのかもしれない。


それでも、そうとはわかっていても、頬を伝う涙が、胸を締め付けるせつなさが止められない。

 


深山幽谷を舞台にした物語にふさわしい、郷愁を伴った幕引きだった。
それがあと少し、希望を伴ったものだったなら、どれほど喜ばしいかったことだろう。

しかしそれさえも今では想像の域を出ないことではある。