悪意ある善人による回顧録

レビューサイトの皮を被り損ねた雑記ブログ

お義父さんと呼ばせて 第3話

録画したものを鑑賞いたしました。

 

***注意はじめ***

以下の文面は言葉遣いに乱れが生じたり、ネタバレにあふれる虞があります。

また、本文は筆者である阿久井善人の独断と偏見に基づいて記されております。

当方が如何な感想を抱いたとしても、議題となっている作品の価値が貶められるはずもなく、読者の皆様のお考えを否定するものではないということを、ここに明記いたします。

***注意おわり***

 

第3話は、美蘭の誕生日までに美蘭と保を別れさせようと決意した紀一郎が、保に対して様々な工作を図るという展開だった。

 

保と紀一郎は二人とも51歳だが、身分は天と地ほどにも差がある。片や年収650万円の中小専門商社の部長で、35年ローンのマンションに一人暮らしの男。もう片方は年収3000万円の総合商社の取締役で、持ち家で家族持ちの男。紀一郎はこのことを盾に、ここまで身分に差があるというのに、今まで金持ちの一人として生きてきた美蘭を幸せにできるのかと保に言い放つ。それは保も薄々感じていたことのようで、碌な反論もできずに黙り込んでしまう。

 

生来の貧乏人である筆者からすれば、手取りの年収300万円以上の人間はすべて金持ちとみなせる。仮に生涯を通して賃貸物件に暮らすことになったとしても、それだけの金があれば必要最低限の暮らしと多少の贅沢をして生きていけるはず。それ以上の金はすべて浪費、散財する以外に使い道などない。紀一郎が言っていることは完全に金持ち側の、つまりは贅沢することに慣れきってしまったダメ人間の理屈である。

 

贅沢できなきゃ死んでしまうと言うのなら、その他大勢の庶民のために謹んで死んでいただきたい。金持ちがどれだけ散財を繰り返しても、金持ち同士で金を持ちまわすだけで市場にとっては何らプラスにならないのだから。

 

また、紀一郎の発想は当事者であるはずの美蘭の思いすら無視している。結婚することで「男が女を幸せにする」という発想は、年功序列や専業主婦が通例だった昔の日本でしか通用しない。この醜くも世知辛い近代日本では、幸せは誰かに与えてもらうものではなく、自分でつかみ取るものなのだ。美蘭はそのことを誰よりもわかっていた。だからこそ保と美蘭がどれだけ年齢に差があったとしても、美蘭は保の側にいることで幸せを感じられたのである。自分がそうしたいからそうするという、良く言えば自由な、悪く言えば勝手気ままな、いかにも現代人らしい発想である。

 

結果的に紀一郎の妨害工作は失敗に終わり、保と美蘭の仲をより強固なものとする結果になってしまった。

前回の話で、宴会場で裸踊りさせられた保の映像を見ながら悔しそうに歯噛みする紀一郎。まったく子どものようなオッサンだが、彼がこれで諦めるはずもない。次回は保の当て馬としてキザったらしい部下の男を使うようだが、さてこれがうまくいくかどうか(いくはずがないのだが)。

 

今後の展開に期待である。