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悪意ある善人による回顧録

レビューサイトの皮を被り損ねた雑記ブログ

乱歩奇譚 Game of Laplace 第5話

ハードディスクに保存してあるアニメを絶賛崩し中です。

 

***注意はじめ***

以下の文面は言葉遣いに乱れが生じたり、ネタバレにあふれる虞があります。

また、本文は筆者である阿久井善人の独断と偏見に基づいて記されております。

当方が如何な感想を抱いたとしても、議題となっている作品の価値が貶められるはずもなく、読者の皆様のお考えを否定するものではないということを、ここに明記いたします。

***注意おわり***

 

 

第5話は「芋虫」。

 

原作は1929年に発表された、四肢を失った軍人の夫を虐げて悦ぶ妻の物語らしい。

 

今回の話は、第4話において逮捕されたカガミ刑事の動機に触れるのがメインで、タイトルの「芋虫」は彼の最愛の妹が殺された時の姿を指していた。

 

なお、彼は怪盗二十面相を騙って殺人を実行していた模倣犯だということが判明した。本物の二十面相が物語りに登場するのかは、まだ不明である。

 

 

正義感に溢れ実直な人間ほど、理想が崩れたときには壊れやすい。などとわかったようなことを言ってみるが、これは実際当たっていると思われる。

 

いつだか誰かの本で宗教に関する考察を眼にしたことがある。その本によると、宗教にはまりやすい人間はエリート層であることが多いらしい。それはなぜか。エリート層の人間は、一旦自分が信じたものは、たとえ誰が否定しようとも信じ続けるらしいのだ。自分の信念を否定されたとき、彼らはまるで獣のように歯向かってくる。

 

カガミ刑事は恵まれない生い立ちだった。早くに両親を亡くし、歳の離れた妹をたった一人で面倒を見ていた。その妹が、自分が逮捕した凶悪犯罪者に惨殺された。それまでも、彼がどれだけ努力して犯罪者を逮捕しても、検察官は裁判で負けることを恐れると、どんな犯罪者でも簡単に不起訴にしてしまう。自分の行いに意味などないと結論付けてしまった彼を誰が責められるだろうか。

 

今回の話でも盛んに取り上げられていたが、刑法39条1項「心神喪失」はだいぶ問題を抱えている法律であるように考えられる。

というのも、この法律自体に問題があるというよりも、この法律が想定していた通りの使われ方がされていない、はっきり言って乱用されすぎているから問題になっているという気がしてならない。

 

心神喪失」は、たとえば何者かによって多量の薬物を摂取され前後不覚に陥り、訳もわからないまま人を殺してしまったなど、本人の責任が問えない場合にだけ適応するべき法理だったはず。それがいつのまにか、精神に障害を負っている者は自分がしでかした行為を理解できないから責任を取ることもできない、よって罪を無くすか軽くする、という使い方がされている。

 

精神は目に見ることができない。だから、相手が本当に責任能力がないのかどうかを見極めることは本質的には不可能なことだ。そうであれば、誰もがこのような裏技的な救済策を用いることは不自然極まりないといえる。この法律の適用範囲は、上記で挙げたような外見上明らかに本人の意思によるものではなかったと推察できるものに限られるべきなのだ。

 

日本の刑法が1907年に策定されたまま、その根幹部分に一切の手が加えられていないことは有名な話だが、国会はもういい加減に時勢に合わせて刑法の全面改正をはじめたほうがいいのではないか。

 

刑法は誰のためにあるのか。国の秩序を守るためだけにあるのか。本当に守られるべきは何か。もっと真剣に考えるべきである。

 

カガミ刑事はこれにてメインキャラクターから降板することになるのだろうか。そうだとしたら、実に惜しいキャラクターを失ったといえる。

 

それにしても、妹を殺した犯人に対するカガミ刑事の復讐方法が徹底しすぎていて戦慄した。犯人が妹にしたのと同じように、両手足を溶解し、目を潰し、そうして身動きを取れなくしたうえで全身を薬漬けにし、生死の境目を行ったり来たりさせながら、じわじわと嬲り殺している真っ最中だというのだ。

死刑は残虐な方法をもって行ってはならないことになっている日本ではとてもじゃないが取り入れられない刑罰ではあるものの、被害者遺族にとっては一考に価する復讐方法ではないだろうか。

 

「やりすぎなければ正義じゃない」なんて何かのマンガで言っていたような気もするが、そんな気概のある人間なんて、特にそんな度胸のある公僕なんてこの国にいるものか。

 

さて、次の話はいつ見ることになるのやら。