悪意ある善人による回顧録

レビューサイトの皮を被り損ねた雑記ブログ

乱歩奇譚 Game of Laplace 第11話(終)

ハードディスクに保存してあるアニメを絶賛崩し中です。

 

***注意はじめ***

以下の文面は言葉遣いに乱れが生じたり、ネタバレにあふれる虞があります。

また、本文は筆者である阿久井善人の独断と偏見に基づいて記されております。

当方が如何な感想を抱いたとしても、議題となっている作品の価値が貶められるはずもなく、読者の皆様のお考えを否定するものではないということを、ここに明記いたします。

***注意おわり***

 

 

第11話は「白昼夢」。

 

 

時計塔に立てこもったナミコシは、コバヤシを除く10人の少年少女を塔の縁に立たせる。ナミコシは「未来を確定させる数式=暗黒星」を完成させるための布石として、テレビ放送を通じてアケチを時計塔へと誘い出す。彼が時計塔に到着するまで、5分経つごとに少年少女たちが投身自殺すると予告して……などの展開。

 

 

「暗黒星」を完成させ、怪人二十面相を象徴として世に蔓延らせること。それがナミコシの目的だった。

 

アケチが時計塔にたどり着くのが遅れれば、アケチは二十面相との対決に負けた探偵として叩かれる。

仮にアケチが時計塔にたどり着いても、ナミコシはコバヤシを手中に納めているため、どちらかの投身自殺を止められない。結果、どちらかを見捨てたアケチは失墜する。

 

どう転んでも、ナミコシの目論見どおり「暗黒星」は完成し、「怪人二十面相」は永遠の免罪符となる。

 

最終話の大半は、ナミコシによって世の中に対する不安を爆発させた大勢の人間がアケチの行く手を妨げるという集団ヒステリーのようなシーンが続いた。

 

確かに、世の中に対して不満を持っている人間は大勢いるだろう。そしてその大半は、理不尽に虐げられてきた弱者だ。きっかけさえ与えられれば、日本人ほど歯止めのきかない民族はいない。もし仮に日本が銃社会になってしまったら、アメリカなんて比じゃないほど毎日のように乱射事件が起きるし、報復殺人が横行するだろうと常々思っている。

 

もちろんそれらの原因は理不尽を押しつける悪者が適正に裁かれていないからなのだが、それについて発言すると「いやそんなことはない」という答えがそこかしこから返ってくるのが現状だ。きっとその人たちは現状に不満を持っていないのだろう。なぜなら、その人たちこそ他者を虐げている人間だから。

 

この作品は、徹頭徹尾世の中の歪みを劇画化して描いていたように思う。

「悪を断罪する」という建前が与えられた人間がどれほど凶暴化するのかという未来予想を描いて見せたのが、この作品なのではないかと感じる。

 

 

しかし我らの探偵アケチはどこまでもリアリストである。

彼は自分の行く手を阻むナミコシのシンパ達に対してこんなことを言う。

 

「わかっているのかお前ら。不安を煽られてるだけなんだぞ!」

 

確かにそのとおりだけど、そのとおりでもないともいえる。

 

 

煽られた程度で爆発する不満なら、放っておいてもいずれはどこかで爆発したに決まっている。

それがまったく無関係の第三者相手ではなく、憎むべき人間に向けられたのなら、別に問題ない気がしないでもない。

 

ただ、そんなことになれば間違いなく社会の秩序は崩壊するし、もはや日本の安全なんてどこかにすっ飛んでしまうだろう。そのうち正義の意味も崩れていくだろうから、自分が気に食わないやつは闇討ちしても構わない、だって「二十面相」の行いは正義に決まっているから、なんていう倒錯した主張が通ってしまうことになるだろう。

 

それはそれで危険な世界だ。

 

結局のところ、怪人二十面相が世の中に蔓延っても、その概念を悪用する人間が現れればもとの世界と変わらなくなってしまう。

 

世界を変えたいなら、人々に害をなす悪人を秘密裏に、一斉に抹殺できればいいのだろうが、そんな手段は現実には存在しない。

 

ナミコシの理想は、どこまでいっても理想でしかないのだ。

 

この危険な理想に魅入られる人間が、おそらくどの世界にも大勢いることだろう。

 

この作品が提示した未来が絶対に訪れないとは言い切れない。てんでリアリティがない話ではあっても、日本人は「きっかけ」に弱すぎるということは正しい。

 

 

 

また、この物語の視点役の一人ともいえたコバヤシ少年について少し述べたいと思う。

 

結局、彼がどうしてあのようにぶっ飛んだ性格になってしまったのかはついぞ語られることはなかった。

第一話において、アケチはコバヤシに対して「好奇心に殺される」といって事件に首を突っ込むことを警告していたが、彼はまったく聞く耳を持たなかった。このときは、コバヤシ少年は危うい物事にだけ興味をもつ危ない嗜好の少年なのかと思っていた。

 

しかし実際は逆だった。彼は世の中すべてに興味がなかったのだ。だから、ほんの少しでも心揺さぶられるものに異様に執着し、それを追いかけることで退屈を紛らわせようとしていただけだったのだ。だから、コバヤシにとってナミコシの言いなりになって死ぬことも、まったく問題はなかったのだろう。なぜならコバヤシはナミコシの理論が実現した社会のほうが「おもしろい」と感じていたから。

 

こんな危険な思想の人間は、いずれ破滅的な最期をたどるに決まっている。だが、コバヤシにとっては幸か不幸か、彼の側にはハシバという常識的な男がいた。それは、ナミコシにとってのアケチのようなものだったのかもしれない。ハシバがいるかぎり、コバヤシが道を違えることはないと思われる。

 

 

前々から気になっていた作品だけあって、中々に見ごたえがあった。

どちらかというと雰囲気優先で作っているためにいろいろと突っ込みたいところは多かったが、そこは敢えて触れないほうがこの作品を楽しむにはちょうど良かったかもしれない。